京都伝統陶芸家協会について

技術保存資格
者の証
当サイトの表題、京都伝統陶芸家協会の冒頭のマルに「技」のマークは、昭和18年に全国で第⼀次指定だけで570名にもなる「⼯芸技術保存者」の略称です。「マル技」とも呼ばれ、その京都の陶芸の指定者が、戦後当協会設⽴の⺟体になりました。
今激動の時代の中で、私たちの伝統的な陶芸も継続の危機に瀕しているといっても過⾔ではないでしょう。しかしもっと危機に直⾯した時代がありました。ある会員の先代は、京都の連隊が戦地に赴く時に、内地に残すわずかの枠の中に⼊れてもらえたそうです。それは、このマル技の指定の後継者だったからということです。私の⽗も、マル技だったためとは聞いていませんが、代々の仕事を受け継ぐ後継者ということで、戦地⾏きを外されたと聞いています。京都の連隊はかなりの激戦で戦死者も多数だったそうです。さらにマル技を受けたことによって、戦時にもかかわらず釉薬の原料など、当時の統制品もたやすく⼿に⼊りました。私どもの仕事は、私どもの先祖の努⼒だけで今まで続いてきたわけではありません。本当に危機に瀕したときに、次の時代に残さねばという当時の社会の思いと努⼒で、今⽇あるわけです。しかし今ではその指定者の全容さえ定かでありません。さらにそれだけの思いで残った指定者の仕事も、戦後少しずつ廃業していっています。残念ながらこれからも減少してゆくでしょう。マル技の指定は、陶芸だけでなく、また京都だけでもありませんでした。しかしマル技を⺟体にした集団は私どもの協会だけです。戦時中のそんな制度、そして当時の先⼈達の思いと努⼒を、唯⼀の後継者の集団たる私たちは、次世代に伝えなければならない⽴場にあると考えています。
残すことは、ひたすら守ることとは考えていません。残すということはその時代に⽣きることです。⽣き残ることとは、私たち⾃⾝が変わってゆくことなのです。
しかし代を重ね、変わっていってもなお変わってはならないもの、それを伝えてゆくこと、これがすなわち伝統であると考えています。
ウェブサイト委員会
1974年刊の「創立十五周年記念展趣意書」より
当協会は、戦時統制時代に国に指定された陶磁器技術保存作家を中心に昭和35年(1960)に設立されました。当時は終戦より近年に至るまで、その存在が茫漠の感があり、真に京焼の伝統的な技術を忠実に継承された作品が、商業的劣悪品と混淆され、また陶磁器関係の刊行物等にも著名な伝統作家が逸脱されている状況が続いていました。そんな中、殊に最近の目覚ましい経済復興による、いわゆる新興購買層に京焼本来の技術と味を紹介する上においても、今こそ伝統芸術保存作家が集結して、京焼本来の姿を顕揚してその新興を計ることが急務と痛感した次第です。そこで、我々京焼の陶芸作家が相寄り、協会をつくり、真に伝統に徹し、世界に冠たる日本伝統陶芸の発展に尽くすことを目的として『京都伝統陶芸家協会』は誕生したのです。
創立二十五周年記念会員作品図録から故永樂即全初代会長の「ごあいさつ」より
桃山、江戸の京焼の祖、長次郎、仁清、乾山に培われ、幕末の頴川、木米、道八、保全。華と咲いた京焼。又、明治、大正の先考の新風の取り入れ、当協会の祖先の人々の並々ならぬ努力が、今日の京焼をつくり出したものでございます。
創立五十周年記念誌「あとがき」より記念誌委員長 松林 豊斎
五十年の歴史の重みとは、世代の連携でもあるわけです。私でいえば、68年前に技術保存の指定を受けたのは祖父、この伝統陶芸家協会の発足は父でした。もうこの協会にはその指定を受けた会員だけでなく、発足時の会員もいなくなってしまい、その後継者ばかりになってしまいました。昭和18年といえば戦争真っ只中、亡国の瀬戸際に近づいて、「贅沢は敵だ」と、国民の力と資源を戦争に集中しなければならないという国情のそのさ中で、日本の伝統技術を後世に遺すべく、各分野570人もの方々を第一次指定されたわけです。日本という国がどうなるかわからないような中で、なお残してゆかなければならないと決意された、伝統技術に対するその時代の思いにあらためて感動いたしました。今、その後継者として、一義的には自らの仕事に精進することですが、「その時代の思いを、忘れられた歴史にしてはならない」という責務を負っていると痛感させられた次第です。