朝⽇焼は慶⻑年間(1596-1615)、初代陶作が⼩堀遠州公より指導をうけ「朝⽇」の⼆字を与えられたことが開窯とされている。のちに遠州七窯とされる所以である。⼜⼆代⽬陶作は、⼩堀遠州の三男権⼗郎より直筆、偏が卓になった「卓朝⽇」を与えられた。当時やきものに窯名を押印することがまだ珍しい時代であった。その後桃⼭城の破却で、⼤名屋敷町もなくなり五代、六代、七代の三代にわたり半農半陶の⽣活を余儀なくされたという。半農はお茶の製造を、⼜⼀⽅宇治川を上り下りする⾼瀬⾈を⽣計の糧としながら、⾟うじて窯を焚いていたことが記録に残っている。幕末8代⻑兵衛は、その⼦9代⻑兵衛ともに復興に奔⾛、庭⽥公卿のご尽⼒によって再興した。以後、明治、⼤正、昭和とこの伝統を継承し今に⾄っている。
1980年 ⼗五世豊斎の⻑男として⽣まれる朝⽇焼の綺麗寂びの美意識をもとに、伝統的であると同時に現代的な作品を制作⾼円宮妃殿下より朝⽇の⼆字を拝領し作品に押印朝⽇焼伝統の⿅背や、紅⿅背とともに新しい⽉⽩釉流しの作⾵を確⽴し、英国セイントアイブスでの作品制作ウェールズ国⽴博物館の作品買い上げや、パリなど各地での発表など海外でも積極的に活動を⾏っている